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原著名出版年月表題作者その他
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キーワード: 愛について
備考: 玉鏡 八幡-P.151 天声-P.103 昭07-09
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=1578

 信仰は恋慕の心であると云ふ事は予て霊界物語其他で示されて居るが、その恋慕の程度の如何に切実なるものあるかを多くの人は知らない。之を一つの理想位に考へて居るのだから駄目である。そんなものでは無い。渾身の真心を捧げて神様に溶け入るとき、それは相愛の男女の抱擁に幾十倍するか分らぬ程の心からなる幸福を享受するのである。天消地滅どころのものでは無い。実際筆や言葉では云ひ現はすことが出来ない底のものである。思うても見よ、相手は至純至美なる神様である。純潔なる処女を形容して天女のやうだとよく人が云ふが、どうしてどうして比較にも何にもなつたものでは無い。現世の美と天界の美とは標準が違ふ。一度天人、天女の相貌に接したものは、現界に於けるどんな美人を見ても美男を見ても、美しいとは感じられない。それは恰も太陽の前の電燈の様なものである。又美女の形容に、竜宮の乙姫様に金覆輪をかけたやうな美人などと云ふが、天人界に比ぶれば、竜宮界の美女達は其気品に於て遠く及ばないものがある。天人界は実に実に美しいものである。再び云ふが、信仰の極致、神様に溶け入る時の心境は、言語に絶した至善、至美、至貴なるものである。其心境を味ははねば徹底したる信仰とは未だ云ひ得ないのである。