出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
神の国 意志想念のままなる天地 参照文献検索
キーワード: 信仰の力
備考: 月180-565638昭04-04
 
本文    文字数=1794

 人間は天から降つたのか、それとも土から生れたのか。天から降つたものなら、必ず天国へ昇り帰る筈だ。地から生れたものなら再び地底に堕ちて行くだらう。生まれない先と、死んだ後は最早人間ではない。人間を論ずるならば、人生で沢山だ。死なんが為めに生れたものは死んだがよい。寂滅為楽の宗門の好きな人間なら誰にも遠慮は要らぬ、ドシドシ寂滅して、楽と為すがよい。アダム、イブを人間の祖先と信じ、祖先の罪を引つ被ることの好きな人間は、自分を罪の子として、どこまでも謝罪し、一生罪人で暮らし、十字架を負うたがよい。神の分身分霊と信じ、神の子神の宮と自分を信ずるものは、どこまでも永遠無窮の生命を保ち、天国に復活して、第二の自分の世界に華やかに活動するがよい。人間はどうせ裸体で生まれて裸体で天国に復活するのだ。その間の人間の行路は中々面白いものだ。そこに人生の真価があるのだ。永遠に生きんとするには、第一に信仰の力が要る。その力は神に依れる力が最も強く、その言霊は大きくなくてはならぬ。人生に宗教のあるのは凡ての樹草に花のあるやうなものだ。花が咲いてそしてりつぱな実がみのるのである。いづれにしても信教は自由だ。意志想念の儘になる天地だ。天国に堕つるも、昇るも、地獄に楽しむも、苦しむも、自ら罪人となつて歓ぶも、泣くも、意志の自由だ。人間は各自勝手に宗教を選択するがよい。それが所謂信教の自由と云ふものかも知れぬ。