出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
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キーワード: 生きがい
備考: 月鏡 八幡-P.372 天声-P.112 昭05-01
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=2554

 小さい事で、人の全体は窺はるるものである。障子襖の開け閉ぢ一つ見ても、今の人達に本当の閉め方の出来る人は一人もないというてもよい、だから総ての事は粗相だらけである。立秋以後は決して扇で人を煽ぐものでもなく、団扇など出すべきものではない。幾何暑くてもさういふ事はしてはならないのであるが、この事を心得て居るものは一人もなく、私が暑いといふと、冬でも扇を以てバタバタとあふぐ、昔から人に捨てらるる事を秋の扇といふではないか。手紙を開封さしてみても下の方を切つたり、横を破つたりする、封筒は一番上を切るのが法で、下の方を切るやうな人があつたら、もの事一つも成就せず、底抜けになつて仕舞ふ。客に行つた場合焼物の肴などは肩のところへ些し箸をつくべきもので、全体をむしやむしや喰べるべきものでない、幾何美味だからと言つて漬物の再請求などすべきものでもない。
 私に対する取扱ひかただつて、どこへ行つても全く非常識で困る。【神の場】と、【人の場】とをハツキリ区別して貰はねばならぬ。大本の信徒達からは私は特別扱ひにさるべき位置にあるかも知れないが、信者以外の人達に対しては、何等さういふ事はなく、単なる出口王仁三郎に過ぎない。然るに朝野の名士達と伍する時にあたつても、私にだけは特別に大きな布団をもつて来てみたり、高いお膳を据えて見たりする。かういふ場合私は【てれくさくて】居耐まらぬ感がする。人の場にある時は人間並に扱つて欲しい、神様扱ひは困る。人として私が活動して居る時、宣伝帽子を被つて訪問されたりするのも困る。私は小乗より大乗に進み、大乗より更に小乗に帰つて来て、これから人間的仕事に従事するのである。その時、その時の私の仕事に順応して皆も活動して欲しいと思ふ。総ての人が極めて常識円満であること、これが大本の教である。昔は、仲々融通の利いた人が大本に入つてから【いや】に固くなつて、鉛の天神様のやうに鯱こばつて仕舞ふのを私は見た。こんな事は神様の思召に叶はぬ。寛厳よろしきを得た真人となつて欲しいと思ふ。