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原著名出版年月表題作者その他
神の国 人間と云ふ問題 参照文献検索
キーワード: 人は神の子
備考: 月鏡 八幡-P.186 天声-P.84 昭04-06
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=3372

 人間とは何か、と云ふ問題が現代思潮に持ち上がつて来たやうであるが、今さら人間を評論するもおかしいやうでもあるが、今日までの学者の評論が総て他の事のみに限られて、人間ご自分の事はお互ひに忘れられてゐたのもおかしい事であつた。古い言葉だが、燈台下暗しとはこの事である。総て人間の世界は人間のものでなくてはならぬ。換言すれば人間は総て人間的生存でなければならぬ。何でもない人間を万物の霊長だからといつて無理矢理に祭壇に祭り上げたり、ことに道学先生や、神主さんや、僧侶や、神道教師の間に於て、神さん振りを発揮したり、仏さんじみた顔付きをして見せたりする。学校の教師は、木石同様の取り扱ひを受け、万々一性慾問題などを論議しようものなら、たちまち驚異の眼をもつて、上司からも、父兄からも睨まれると云ふ状態である。しかし人間は、どこまでも人間であつて、これを分析して見れば、或ひは神聖な所もある。或ひは貧慾な性分もあり、或ひは応分の野獣性ももつてゐる。故に人間は善だとか、悪だとか云ふ事は、すでに議論の末である。学校の教師だとて、恋愛心もあるし、金も欲しい。女郎だとて、乞食だとて、信義を堅く守る事もある。神主、僧侶、牧師だとて、殺人行為がないとも限らない。司法官や警官がたの中から、盗賊が出ないともいへぬ。人間には三分の自惚れと、七分の黴毒気のないものはないと云ふではないか。無産階級の人々が野獣性に富んで、有産階級の人々が神聖味が豊富だと云ふ筋合ひでもない。いづれを問はず、人間として生を有するものは、以上の如き性分を含有してをる。ただその量に於て、多少の差は、ある底の信仰や、修行によつて異なつてをる所があるくらゐのものである。
 現行法律の上からは、人間から生れたものを人間と云ふ断定のもとに人間を取り扱つてゐる。それに人間と神とを同一に取り扱はうとするものがあるかと思へば、脱線した自由主義者や自然主義者の間に於ては、これを獣的に取り扱はうとするものさへある。これらの人間はただ単に性慾満足、物質満足をもつて、人生は足るやうに思つてゐる輩である。一体全体、人間を主義などと云ふものの型にはめようとするのが、そもそもの間違ひである。
 大本は、人は神の子、神の宮と唱へてゐる。また「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり。神人合一して、茲に無限の権力を発揮す」とか、また「人は天界の基礎なり。天国は昇り易く、地獄は堕ち難し」といつてをるのは、普通一般の所謂人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つ所の神柱のヒト(霊止)を指したものである。人と獣との中間に彷徨してをる縦はな横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考へて貰ひたい。