出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
神の国 意志想念の儘なる天地 参照文献検索
キーワード: その他
備考: 月鏡 八幡-P.180 天声-P.56 昭04-04
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=1767

 人間は天から降つたのか、それとも土から生れたのか、天から降つたものなら、必ず天国へ昇り帰る筈だ、地から生れたものなら再び地底に堕ちて行くだらう。生れない先と、死んだ後は最早人間ではない。人間を論ずるならば、人生で沢山だ、死なんが為に生れたものは死んだがよい。寂滅為楽の宗門の好きな人間なら誰にも遠慮は要らぬ、ドシドシ寂滅して、楽と為すがよい。アダム、イブを人間の祖先と信じ、祖先の罪を引つ被ることの好きな人間は、自分を罪の子として、何処までも謝罪し一生罪人で暮し、十字架を負うたがよい、神の分身分霊と信じ神の子神の宮と自分を信ずるものは、何処までも永遠無窮の生命を保ち、天国に復活して、第二の自分の世界に華やかに活動するがよい。人間はどうせ裸体で生れて裸体で天国に復活するのだ、その間の人間の行路は中々面白いものだ。其所に人生の真価が在るのだ。永遠に生きんとするには、第一に信仰の力が要る、その力は神に依れる力が最も強く、その言霊は大きくなくてはならぬ。人生に宗教のあるのは凡ての樹草に花のあるやうなものだ。花が咲いてそして立派な実がみのるのである。何れにしても信教は自由だ、意志想念の儘になる天地だ、天国に堕つるも、昇るも、地獄に楽しむも苦しむも、自ら罪人となつて歓ぶも、泣くも、意志の自由だ。人間は各自勝手に宗教を選択するがよい、それが所謂信教の自由といふものかも知れぬ。