出口王仁三郎 文献検索
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原著名 | 出版年月 | 表題 | 作者 | その他 |
神の国 | | 阿弥陀の実現化、弥勒仏 | | 参照文献検索 |
キーワード: その他 |
備考: 水鏡 八幡-P.41 天声-P.178 昭03-10 |
ルビ付き本文: 王仁三郎資料センター |
本文 文字数=1224
朝夕の教会詣でも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、鐘をたたいて読経するのも、悪い事ではない。それは唯信仰の行程であつて、百万億土に極楽浄土があつてそこへ行つたら蓮華の台にのせられて、百味の飯食が得られると無我に信ずる事が出来て木仏金仏石仏、絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることの出来る者は幸福者だが、現代の人間はそういふ絶対他力の安心の出来難いものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめ込んで居るものも、必ず助けて貰へると絶対他力の帰依者も、いよいよ死といふ一段に想ひを致した時はグラツイて来るものが多い。あれ程信心深い同行でさへと云ふ言〔事〕がある。極楽浄土から便りのあつたものは今に一人も無い。只信ぜよ弥陀を基督をと謂つても夫はあまりに安すぎて受取りにくい者が多い。こう思ひ考へて見ると真個に信心の出来たものが幾人あるだらうか。それを思つて自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとする為に努力して居るのである。