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原著名出版年月表題作者その他
神の国 生命 参照文献検索
キーワード: 永遠の生命
備考: 水鏡 八幡-P.171 天声-P.145 昭03-09
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=4090

 生命は永久に存続するもので、過去現在未来の三世に渉つて生きて居る、吾々生物の生命は絶対不変無始無終にして、神の分霊分身である。故に永遠に渉つて不老不死である。
 吾人は地上の誰人とも約束なく、唯々惟神の摂理によつて生るべき所に生るべき時を得て生れたまでだ。それ故に愛着だとか悲惨だとか苦痛だとか快感だとか云ふものは、その本来には無いのだ。只喜怒哀楽、愛悪慾の情の如きは、肉感的一の衝動に過ぎぬ。現在は是だ是だと握つて居る事は出来得るが、そうして掴んでる間にそれ自体の現在は既に過去に属して了ふ。未来と聞けば遠い様に考へられるが、その間もそれは現在として展開して来るでは無いか。そう考へて見ると、吾々の生命は絶対無限であらねばならぬ。春夏秋冬と宇宙の大自然は、規則正しく展開して永遠に変りが無い。吾々の生命も愛着悲惨苦痛快感と展廻して、永遠に変りはないのだ。
 世の中に現実観ほど悲哀の多いものは無い。あの仕事をやつて見たい、この望みも達したい、明日が来たら、明後日が来たら恋人に逢へる、来春は久し振りで帰郷して懐しい慈母に会へると指折り数へてゐる。子にも会へると云つて自分が指を折つて待つて行く。引きつける様に色々な欲求を追つて行く。その心の底に一脈の喜びが潜んでゐる。併しそれを待つ刻一刻に其人の生命は幻滅に近づいて行く。可愛らしかつた子は筋肉逞しき壮漢となり、愛らしかつた恋人は皺苦茶の姿となり、曲線美は梅干の如く乾からびて行く。小さい現実の欲求を遂げんとする為に死に行く大なる犠牲を払ひつつ迷路に進んで行くのだ。刻々にその人の生命は死の関門を指して、一歩一歩近づきつつあるのである。若しそれ吾人の生命が有限のものであつたら、さうした欲求の行程は死の行程であつて、是ほど大なる不幸と不安は無いのである。
 無限の生命、そこに吾人が絶対不断の生命を見出して、永久に生きる事を悟つた時、吾々の眼前に展開されるものは総てが試練であり、凡てが教訓である事が覚り得られる。吾々が人間として世に処するその間の出来事を見ても、幾多の曲折があるので面白い。その当時は欲求に満たない、云はば一種の苦痛として痛ましい事であつたその試練されたことを、時過ぎてから想ひ出した時に、皆それは追憶となつて美しき過去を見る事が出来る楽しさがある。過去の悲惨なりし歴史も、甘かりし恋路も得意も失敗も幻の如く現実に浮んで来る毎に一種の愉快さを覚ゆる。そして過去から現在未来へと永遠無窮に生命が継続されつつ天国の果てなき国へと進んで行く。是が人生永遠の生命だ。
 自分は今迄の体験から考へると、吾々の過去は真に美しかつた。貧乏で食ふや食はずの危機に立つたことも、冤罪を被ぶつて獄舎に自由を束縛されて居た事も、世間のあらゆる嘲笑讒誣の的となつたことも、過去の歴史の一頁として語る時、それは皆美しい、そして楽しい。仮令貧乏生活でも悲惨の境遇でも、それを永続した時は勝利となつて来る。勝利は常に正義である。社会から何程嘲罵され、侮辱され、批難されても、それ自体が永続したら、必ず末には正道として認めらるる事になる。現代人の大本に対する総ての観念も、今や勝利者として遇するに至つたのは、吾人が永遠の生命を確信して不断の活動を続けて来た活歴史の賜であるとも云へる。