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原著名出版年月表題作者その他
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キーワード: 生きがい
備考: 水鏡 八幡-P.160 天声-P.106 昭02-08
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=3544

 人は水の流れるやうに生活すればよろしい。水は流れやすい方向を選んで、いと自然におのが途を開いて進み行く。途中、障害物に突きあたる事があると、またいと自然に方向転換をやつて進みやすい道を進んで行く。これが処世法の秘訣である。自然に逆らつて低きにつかんとする水を高所に上げやうとするやうな生活は、労多くして功がすくないものである。
 現今の地上は、悪魔の集会所である。故に諸善神は天にのぼり、地に潜んで、その跋扈跳梁に任してあるが如き状態である。であるから善い事は容易に出来ない世の中である。善い人、善い仕事にはかへつて悪魔がつきまとうて邪魔をする。ちようどよい果実に悪い虫がつくやうなものであつて、神様のお守りを受けるよりほかにこれを防ぐ道がないものである。甘い果実に悪い虫がつく、その虫がつかぬやうに人間が除虫法を行ひ、袋をかぶせて保護してやる。さうすると誠にりつぱな見事なものが得らるる道理。どんな性のよい人、また成功すべき仕事であつても、神様のお守りがないと悪魔に祟られて、惜しい事には十分成熟せずに、ポタリポタリと途中で落ちて行く果実のそれと同じ結果に終つてしまふのである。
 生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人はそのもとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつていかんともする事は出来ない。大切な子が死んだ為め信仰をおとすなどと云ふのは訳の分らぬ人間である。
 思ふやうには行かぬ世の中である。それは前云ふ通り、地上に悪魔が横行闊歩してをるからである。それ故に人間は神様に守つて頂くと同時に、勇気を出して物事をやつて行かねばならぬ。勇気を出せば悪魔は退いてしまふ。人は思ふ道を勇敢に進むに限る。思ふやうには行かぬ世の中と云ふのは悪魔のさやる世の中を云ふので、神代になれば思ふ事が箱さしたやうに、ケタリ、ケタリとうまく行く事は神諭に示さるる通りである。それだからこそ神様が立替を急いでおいでなさるので、神様は早くこの悪魔を退治して皆が喜び勇んで暮す世の中にしてやらうと、昼夜間断なく御活動になつてゐるのである。思へば有難く勿体ない限りである。
 どんな仕事でも十年くらゐ辛抱すれば運が向いて来る。一年や二年では成功するものではない。一つ仕事をつかまへたらそれを変へぬほうがよい。二、三年してはほかし、三、四年しては職業を変へるやうな人は、生涯成功を見る事が出来ない。十年しても芽が出ねば、ほかの仕事を選んで見てもよいが、それも若いうちの事で、四十歳を越したらもう、ちやんと一定の職業と云ふものが定まらねばならぬ。四十歳で仕事が定まればそれがまあ普通である。四十歳を越して仕事をかへてもあかん。三十歳までに仕事が定まればその人は成功者となる事が出来る。