出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
神の国 人類愛善の真義 参照文献検索
キーワード: 人類愛善会
備考: 大正15年4月18日於亀岡光照殿 人類愛善会第一回総会における演説
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本文    文字数=8816

 人類愛善会という会を起し、名称を附しましたに就て、人類愛善と云う意味が未だ徹底せず、浅く考えて居る人があるように思います。又解って居る人もあろうと思いますが、一寸それを説明して置きます。
 一寸聞くと人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえて居ります。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になって居りますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変って来る。単に「人類」と丈謂えば世界一般の人類或は人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。併し日本の言霊の上から謂えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止るという事である。そうして「人」という宇は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになって居る。神というものは無形のものであるが、併し神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止まる処の肉体が必要であります。それで神の直接内流を受る処の予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、此の霊(神)の止まるのが人(ヒト)である。それは神の顕現・神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来て居る。人間というものは、善悪混淆した普通のものであるが、人というと神の止まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣うのである。
 神は善と愛としかない。理性も理智もない。愛という事にかかったら、理性も理智も何もなく、どれ程極道息子でも愛の方から謂えば、只可愛い一方である。天国の神の世界には、愛と善とより外にはない。愛は即ち善であり、善は即ち愛である。
 神の愛善は何ういうものであるかというと、総ての脅喝的ー今の既成宗教のように戒律とか云うもので脅喝しない。今は戒律で人間を怖がらし、天国とか地獄とかを拵え、善を為せば天国へ行く、悪を為せば冥官が厳めしい顔をして裁くというように、今の教は脅喝的に出来て居る。併し神には脅喝というものはない。只愛する一方です。泥棒のようなものでも、又どんな悪人でも、こちらから親切にしむけて行くと、其の人は恩を覚えて居り、どんな善人でもあまりこちらから強う行くと恨んで来る。併しそれはお互に同じ人間の事であるが、神の愛というと、敵でも何でも本当に心の中から憎いという心が起って来ない。其処が本当に純なる神の愛なのです。今日の人間の作った不完全な現行刑法でも、親が泥棒をしたとか、親が罪を犯したとかいうて、其の息子なり孫なり妻君までを懲役に引っ張って行って刑を科するというような事はないのです。
 況して至仁至愛の神様が、先祖が罪を造ったから其の子孫を罰する、それを恕して貰うというような事は、今日の不完全な法律よりも徹底しない教であって、決して神の伝えた教ではないのであります。
 神は、善人であるから愛するとか、悪人であるから罰するというような事はない。総て愛と善とで向われる。此の愛と善とを取って了ったならば、神の神格というものが無くなる。
 人間も愛と善とが無かったら、人間でない。形は人間でも、矢張り獣になって了う。神様も其の通りであります。神様は色々の方法を用いて、総ての機関をお造りになり、そして神の意志を、地上の愛する処の人間一般にお伝えになる。之は昔から時代々々に依って色々の神のお使いが現われて、世の中に伝達して居りますが、併しそれを聞く人が皆間違って居って、本当の神の意志をよう取って居らぬ丈のものである。それが為に今日の既成宗教というものが、輪郭丈けは極立派にありますし、また言うて居る事もなかなか立派にある。善悪正邪に因果応報だとか、其の区別とかいう事は立派にありまするが、実行は出来ない。そういう戒律づくめで、愛と善との徹底しない宗教を信仰して居ると、信仰すれば信仰する程不安の念が漂うて来る。
 信仰しなければ何ともないものが、信仰した為に、今日までああいう悪があった、こういう事があったと、臆病風が起って来る。神は愛と善とが本体である以上は、一切の悪は恕して呉れる。又元より恕す恕さぬというような事もない。恕される恕されないというような事は、自分の魂の持方一つによって、いろいろと感じられるだけの事である。
 一体人類愛善というものは、神の聖霊に充された処の予言者、或は伝達者に類する処の心になり、そうして愛善を行う。善人だから愛する、悪人だから憎むというような事ならば、それは本当の愛ではないのであります。
 愛という事になって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは、千里程向うに行って了って居る。又神様が罰するとか戒めるとかいうような事があれば、神其のものの御神格というものは、千里程向うに脱出して了っているのである。
 此の世の中は愛と善とで固まって居る世の中でありますから、何事も総て愛善の神様に任して、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎこし苦労をしないよう1過ぎこし苦労というものは、済んで了ってからの事である。彼奴はああいう事を言いよったとか、彼奴の讐をとらんならんとか、ああせなんだら、今まで大分財産も出来て居ったのにというような事で、又取り越し苦労をして、明日の事を、明日は何うしようかと考えて居っても仕方がない。千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行く処は東京なら東京と決めて置いて、一足々々を注意して行く。積極的刹那心を以て進んで行く。そうすれば、影が形に伴う如く、愛善の心が起って来る。取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の慾も起って来ぬ。怨恨も忘れて来る。又妙な慾望もなくなる。大本の方から謂うと、それが惟神の精神である。
 大本の方は神様の神勅によって宣伝使を拵えて居りますが、愛善会の方は宣伝使というものはありませんけれども、自然に愛善の徳が出来て来たら、其の人の身体から光明が出て来る。そうすると、独りでに其の人の光明に照されて、世界が愛善になる。愛善を売りに歩いても、売りに行ったものは効果がない。又自分が愛善をやって居るとか、自分が善をやって居るとかいうような時には、自己愛が其の中に這入って居って、本当の愛善になって居らない。世の為め社会の為と皆考えて居りますが、其考えがある間はなって居らぬ。凡て何も彼もなく、無になって了う。無になった時に、愛善が身体に這入って来る。愛善会には、あまり小六ケ敷い演説もなければ話も出来ない。
 私は初めの時に愛と善との事を謂うて置きましたが、あまり細かく分析して謂う事は出来ない。愛善というようなものは、非常に大きなものであって、謂うに謂われず説くに説かれず、丁度ボタ餅が何ういう味であるかという事を説明して見ようというても、食ってみなければわからぬ。各自に食って見て初めて其のうまさが解るので、愛善もそれと同じことで、到底人間の力で分析して説く事は出来ない。
 それは其の人の徳相応の光明に依って味われるものであると思います。
(「神の国」、大正十五年五月号)