出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
東京日日新聞 昭和10年12月9日【附録】p2(3) 参照文献検索
キーワード: 二次事件
 
本文    文字数=5537

第一次検挙を語る
腹心の警部を間諜に使ふ
平沼総長の激励に勇躍
時の警察部長藤沼さんの追懐
今から十五年前、大正十年二月十二日最初の大本教大検挙をやつてのけた時の京都府警察部長現貴族院議員藤沼庄平さんは荏原区小山町の自宅で本社の号外を手にして「ホホオやつたね」とまづ感嘆の第一声を発した「おれの追懐談かネ、それは困るよ、昔話つてものは自慢話に堕ちるんでネ…」とくりくりした如何にも栄養のいい顔をツルリと撫でながら語るのである
大分昔ぢゃで忘れてしまうたが丁度卅七歳の時ぢやつた、この大検挙の一年半前の大正八年の秋、出口を三日、朝の一晩取調べて「以後かかる不謹慎の行為なきやうに」との軽い警告を発したことがある、この時かれらが改悛すればこんなこともなかつたのぢやが、その後何等謹慎の模様がないのでこれはいよいよ断行せにやならんとひそかに上京して内務省に意中を訴へ、ついで司法省の豊島刑事局長を訪れたところ検事総長に会へといはれた、時の総長は平沼騏一郎さんで次席検事は小山松吉さんだつたが、この両氏に会つた時平沼さんは「やれ!」とたつた一言、承諾を与へたのだ、まさに千金の一語だつた、今まで誰も相手にしてくれなかつたのがかう簡単にいはれたのでわしは飛立つやうに嬉しかつたものだ、その後腹心の警部高芝羆君(現在日本生命仙台市支店長)を綾部に派して証拠を集めさせたがこの先生が実によく喰ひこんだもので、一年間のうちに彼は大本教の枢要部にまで列せられた程食ひ込んでゐた、そこで大正十年二月十二日(発表されたのは同年五月一日)の前夜即ち紀元節の夜十一時─(紀元節を遠慮して一日延ばしたわけである)─電話で私自ら部下の署長を官舎に召集した時、何事ならんと一同おつとり刀でやつて来た、ここで先づ署長にはじめて計画を打ち明け、十二日の未明舞鶴行の列車に警官約百名を目的も告げずに乗り込ませたが、一同は舞鶴でストライキがあつたんぢゃらうくらゐに考へてゐたらしい
車中で計画を伝へ各自の分担部署を書ゐた封書を手渡した時は流石に緊張その極に達したわけぢゃ、検挙地綾部、亀岡、八木、京都の四ケ所を中心とする地方は通信電話を切断したので新聞社の記者諸君は手の下しやうがなく現場にやつて来た時には一網打尽の検挙を終へて引揚げた時だつた、全くあの時は痛快だつたネ、今から考へて私が若かつたと思ふのはこの時十分な証拠がありながら、不敬罪だけでやつたので出口等は結局特赦で放免されたのだ、出口つて男は実に変通の才のある男で、かれを大正日日新聞社長室から呼び出した時「藤沼さん、不敬罪ではないでせうネ」とまつ先にいつたのには感心したよ、兎に角こんなものが日本に存立を許されてゐること自体が間違ひなので、今度こそは断乎として膺懲《ようちよう》せにやならん
と藤沼さん最後に一言、元の警視総監気質を出したが流石に往時を追想してか感慨を禁じ得ないやうだつた(写真は本社の号外を手にした藤沼さん)
時の警部高芝さん
その頃を語る
【仙台発】謎の大本教に大正十年二月十二日第一回の手入れをした当時京都府警察部長だつた藤沼庄平氏の命を受け、単身大本教本部に入り込んで王仁三郎から「大本教教主補秘書」の墨付をもらひ、身命を賭してその内情を具さに調査報告して検挙に隠れた功労を立てた当時京都府警察部高等課勤務高芝氏は、昭和二年退職後日本生命に入り現在では仙台支店長になつてゐる、今回の検挙に際し同氏は第一回の検挙につゐて左の如く語つた
大本教は最初から邪教といふのではなかつたが、出口氏と勢力争ひの形があつた浅野和三郎氏一派の暗闘となり、一部の信者は好きな行動するやうになつた、この当時の床次内相、中橋文相をはじめ、藤沼警察部長は信仰団体に弾圧を加へることは面白くないし却つて悪い結果になるから出来るだけ善導しようといふので、私が大正八年夏命ぜられて本部に入るやうになつた、一ケ年半にわたつて内情を調査し、出口氏に教義の正道に立返ることを勧めた、同氏も非常に感激して私を教主補秘書にしたが、しかしそのころ祭務を主としてゐた出口氏の勢力は政務を預つてゐる浅野氏まで及ばず、本部の内訌《ないこう》は再三の警察部の勧告をきかなかつたので遂に手を入れたわけである、出口氏は大本教の機関紙大正日日新聞から、また浅野氏ほか三氏は大本教本部から連行したが、誰一人として反抗などしませんでした、あの当時当局の警告をきゐてゐれば今回の検挙もなかつたでせう